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彼が籍を入れてくれないの! [琴線に触れた友人達]

時々、
自分の人生の中で琴線に触れた
友人達を記述していますが、
今回で10人目となります。


今では誰にでも知られている
歌ですが、当時あまり知られて
いなかった「さとうきび畑」
という歌を教えてくれたのが
後輩の彼女でした。


彼女が当クラブに入部してきた時、
彼女の性格が
余りにも素直なものだから、
我々上級生としては
「共通の妹という事にしよう!」
という話でまとまった。


春のある日、
彼女の友人が通っているという
学校の人見記念講堂に行き、
フォークのコンサートを
見に行った事がある。

その時は確か、
山本コータロー達が
「走れコータロー」を
歌っていた。


夏になると、
テント持参で
大磯の海岸に
海水浴に出かけた。

秋になると、
大学のダンスパーティーが
あるので、
今は無き友人の部屋で
皆で踊りの稽古。

ダンスの基本やジルバなどの
踊りのお稽古だ。

そんな楽しい学生時代は、
あっと言う間に通りすぎた。

 

学校を卒業してから
10年後のある日、
彼女と電話で話をした。


今は、
池袋で中学生相手に
英語を教えていると言う。


そして、彼女は、
ある人物と
同棲していると言う。

相手は私の知らない人物だ。

話の途中で、
「彼が籍を入れてくれないの!」
と彼女が一言呟いた。

その瞬間、
暫く会話が途切れ、
私はそれ以上踏み込んで
事情を聞く事は出来なかった。

 

その後は、こちらから
同じクラブメンバーの
近況を郵送すると言う
一方通行の状態が続いている。


その後の彼女の生活が
気に掛かるのだが、
電話をするのも何となく
躊躇している状態が
何年も続いている。

 

彼女が教えてくれた
「さとうきび畑」。

ざわわ、ざわわの歌詞が
さとうきびの葉が揺れている
情景を良く表している。

 


若い頃、
「自分と沖縄との繋がりなどない」
と思っていたが、
それはとんでもない間違いだった。

伯母が沖縄旅行に行って、
沢山の戦死者の名前が
彫ってある石碑を見ていたら
その中に、
戦死した伯父2人の名前が
あったのだ。


実際は
フィリピンで戦死したのだが、
沖縄が日本国最南端の島だからなのか
2人の名前が刻んであったのだそうだ。


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オー・ハンサム! [琴線に触れた友人達]

以前、私の人生の中で
「琴線に触れた友人達」を
何人か書いたが、
まだ何人か残っているので
思い出しながら記述してみよう。


彼の学生時代の
あだ名は「猪木!」。

 

images11.jpg

 

しかし、
風貌が似ているのではなく
体格が良く、筋肉質で、
私より頭ひとつ大きいからだ。

彼が大学で初めてレスリング部を
立ち上げた時、
私も設立者として参加した。


最初の夏休み、
彼が一人で東北旅行に行き
列車に乗った時、
3人の米国人の若者と
席が同じになった。


色々と話をしている内に
彼らから
「ユー・アー・アメリカン!」
と言われたそうだ。

彼がハーフなのかどうか
私にも見分けがつかない。

 

また、
やはりある夏の日、
彼が海水浴の帰りに
東京駅の構内を
歩いていた時の事。



黒人の女性とすれ違った瞬間、
「オー・ハンサム!」と
言われたと言う。

う~ん、
そこまで外人から言われるという事は
幾らかあちらの血が
混じっているのかも知れない。

私から見ると、
彼はハンサムと言うより
般若のような顔の
体格の良い外人風の
面影の人物としか
見えないのだが・・・、
一応、彼は
サングラスは似合う。


私が子供の頃、
明武谷と言う
そっぷ型のお相撲さんがいた。

images12.jpg

痩せ型と言うより、
フットボールの選手の体型だと言う。

日本人から見ると
ただの毛むくじゃらの
相撲取りなのだが、
外人からは
その関取がハンサムと言う事で
人気があった。


人種によって
ハンサム度が違うようだ。

 


学校の卒業シーズン、
彼はある商社の面接を受けた。

「アフリカでも何処でも行きますから!」
と答えてその商社に入いり、
シンガポールに転勤となった。


大学の外国語学部には
沢山の女性がいるが、
我々経済学部のクラスには
たったの2名しかいなかった。

その内の1人が彼の奥さんとなり
彼等に双子の女の子が出来た。

その後、
私も暑いシンガポールには行ったが、
小さな双子の子供たちを連れての
いきなりの外国暮らしはどうだった
のだろうか。

彼等は
そろそろ日本に
帰国しているはずだが・・・。

 

 


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雲鳥山・蓼科山に登る(琴線に触れた友人達ーその8) [琴線に触れた友人達]

私の人生の中で
琴線(きんせん)に触れた
友人達の今回は8人目。


高校時代の友人である彼は、
顔が四角いから「下駄くん」
とでも呼ぼうか。

 

images.jpg


高校に入学して2ヶ月目の6月。


彼とバツイチくんと私で
雲取山に登った。


この山は、
東京都では一番高い山である。

 

Fuji_Kumotori_t.jpg

(晴れていればこの景色なのだが、残念ながら

我々が登った時は雨で、周りは雲だらけだった。

そこの頂上で休憩した際、傘を忘れてきてしまった。) 


山小屋で休憩をした時、
缶に入った固形燃料に火を付け、
その上に鍋を乗せ、
水とチキンラーメンを入れた。


10分ほどして、
そろそろ食べ頃となったので
固形燃料に蓋をしたのだが、
それがいけなかった。


燃料の熱が
まだ残っていたのである。

 

蓋が飛んで、鍋の中に
固形燃料が飛び込んでしまい
せっかくのラーメンが
食べられなくなってしまった。

 

そこで仕方なく、
山小屋のラーメンを食べた
と言う苦い思い出がある。

 

その他、
大菩薩峠、蓼科山、三峰山
などを登り、
下駄くんには
山の楽しさを教えて貰った。

 

top.jpg

(白樺湖と向こうに見えるのが蓼科山。あそこの頂上には、

バッチが沢山付いた帽子を忘れてきてしまった。)


二十歳前後の頃、
彼の父親が
上諏訪に単身赴任していた。


そこに2年続けて
4人で押しかけた事がある。


住まいにはお風呂はないが
駅前の温泉宿の温泉を
毎日利用させてもらった。


彼の父親は
蓼科湖の近くに
西洋風なお城を移築する
仕事をしていて、
水色の奇麗なその城は
ブルー・シャトウ
そのものだった。


あの城は
まだあるのだろうか。

 

また、
下駄くんとは映画や
音楽の趣味が合った。


池袋の東武デパート内の
ムービーシアターや
佳作座などで沢山の映画を見た。

images-11.jpg


当時は、
米国映画だけでなく
イタリヤ、フランスなどの
ヨーロッパ映画も盛んで
楽しい映画を満喫した。

 


我等が通っていた頃は
ぼんくら学校だったのだが、
昨年などは、
早稲田、慶応に130人も
入学する学校となってしまい、
我等OBとしては
些か戸惑っている次第だ。


下駄くん達とは
高校を卒業以来
毎年元旦には明治神宮に
参拝に出かけるのが
恒例となっている。


今年は、
これで何十回目の
参拝となったのであろうか。


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色っぽいと言われるのが嫌!(琴線に触れた友人達ーその7) [琴線に触れた友人達]

私の人生の中で
琴線(きんせん)に触れた友人達の
今回は7人目です。

彼女のかもし出す雰囲気が
ヒッチコックの映画「めまい」
に登場するミッジに似ている事。

また、
名前のイメージが近い事から
彼女の事は「ミッジ」と
呼ばせて貰う。


二十歳の頃、
まだ学生だった私は
車の免許は持っていなかった。

しかし、
既に彼女は免許を取得していて
当時赤い車を乗り回していた。

 

赤-1.GIF

 

ある日、その車で
彼女の友人が働いているという
駅前喫茶「スリー・ソックス」
に行った。

お店の入り口の上に
「3枚の靴下」の飾りが
ぶら下がっている。


ネームミングが可愛い
そのお店のドアーを開けると、
店内にはクラシックの音楽が
流れていた。

おそらく、
彼女とミッジとは
高校の同級生ではないかと
思われる。

話によると
友人とミッジとは
「男嫌い」で気が合うとか。


その翌日、
彼女から電話があり
「貴方を送った後、
車をぶつけたの!」と
言われた。

危ういところだった。


当時は、
マイカー時代の幕開けで
今とは違い
女性が車を運転するのは珍しく、
世の男からは「メ○運転」と
言われていた。

車を運転するには
力が必要で、
それは男の領域だと
私も思っていた。

現在の様に、
こんなにも沢山の女性が
車を運転する時代がくるとは
想像も出来なかった。

 

 

ある秋の日、
2人で日比谷の映画館に行き
「パリのめぐり逢い」を
見に行った事がある。

 


クロード・ルルーシュの
音楽が素敵なその映画を鑑賞後、
コリドー街の喫茶店に入った。


そこで彼女はふと、
「私、皆から色っぽいと
良く言われるけど、
それが嫌なの!」と
つぶやいた。


私は今まで、
彼女に対しては友人感覚はあったが、
そんな感覚は持っていなかった。

改めてそう言われてみれば
私もそう思うので
「それはね・・・、
君の行動がおっとりしているから
知らない世間の男にはそう見えるの!」
とからかい半分の言葉が
喉まで出かかったが言うのを止めた。


それが、
「彼女にとっては 真剣な悩み事だ」
と感じたからだ。

 

彼女の仕事の定休日は火曜日。

私の仕事の定休日は土日と
すれ違いが多かったせいか、
ミッジとはそれ以降
段々と疎遠になってしまった。

 

それから15年後。
前回紹介した「新聞社くん」の
父親が亡くなった。

葬儀の会場で歓談していると、
新聞社くんの妹が来て、
ある女性を私に紹介した。

「こちらは、ミッジさんのお姉さんです」
と。

「え?何故、
私に紹介するのだろうか?」。


私と彼女の付き合いは
誰も知らぬはずなのに・・・。


「知らぬは当人ばかりなり!」
と言う事か。

 

私は、
その後のミッジさんの
人生を知らないのだ。

 

 


 


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鶏とマラソン(琴線に触れた友人達ーその6) [琴線に触れた友人達]

さて、私の人生の中で
「琴線に触れた友人達」の
今回は6人目です。

当時、
同じ苗字の友人が2人いたので
私が彼の話をすると
「それは、すし屋の方か新聞社の方か?」
と父親から良く聞かれた事を思い出す。

すし屋の方は、
その後地元の消防署の署長などを
勤めて偉くなってしまったので
今回は「新聞社くん」の話をします。

彼も「がんもくん」と同じく
中学生の時に知り合った友人だ。


中学生当時、
我々男子の間で鶏やウサギを
飼育するのが流行った。

聞くと、
ウサギの飼育は難しそうなので
私は鶏の雛を2羽手に入れ
飼い始めた。

裏庭に野菜を植え、
毎日菜っ葉を餌に混ぜて
与えるのだ。

ある日、
卵が柔らかい事に気づいたので
試しに貝殻を砕いて餌に混ぜてやると、
丁度良い卵の硬さになった。

 

CAIVCP05.jpg


そして、
2ヶ月もすると、
その鶏達は私に馴染んでしまい
庭に放すと、
バタバタと飛んで来て
私の背中に乗る様になった。

ある日、
学校帰りに「新聞社くん」が
我が家に来た時、
私と鶏の光景を見て羨ましくなり、
ついに彼も
2羽の鶏を飼い始めてしまった。

鶏達は、
毎日卵を産んでくれた。

同時に、
我々は動物を飼う事で
貴重な経験をさせて貰った。

この鶏の飼育の件は、
今でも懐かしい話として
新聞社くんとの間で話題に上る。

 

長じて新聞社くんの趣味は
マラソンとなった。

今でこそ「趣味はマラソン」
と言うと聞こえは良いが、
当時はそうでもなかった。

誰かが新聞社くん宅に電話をした際、
「今マラソンに出て不在です!」と
答えると、
当時は引かれてしまったものだ。


彼は高校を卒業すると
自衛隊に入隊した。

場所は、
高田駐屯地と聞いた事がある。

しかし、
数年でそこを辞めてしまい
次は映画会社、
その次は経済専門の新聞社と
職を変えた。


そして、彼の自慢は、
その新聞社の運動会で
「10年間マラソンの
首位を守った」事になった。

 

彼は、
体力があるものだから
お酒も沢山飲む。

冬のある日、
新しいスキー板を買い、
脇に株券の袋を抱えて
会社の同僚と居酒屋に入った。

そして数時間後、電車に乗り、
スキー板と株券を棚に上げ
そのまま寝込んでしまった。

やがて、
自宅近くの駅で目が覚めた時、
棚に乗せておいたスキー板と
株券は何処にもなかった。


この各駅停車の路線は、
嘗て「きー坊」も
「手提げを網棚に乗せておいて
無くなった」と嘆いていた事もある。


この様に、
注意をしないといけない路線なのだが、
困った事に、現在私の息子が
この路線を利用しているのだ。

 

CADDBMXJ.jpg

 

「新聞社くん」の振る舞いは
我がままで、ぶっきらぼうで
映画「フーテンの寅」の
主人公の寅次郎にも似ている所が
あるが、
彼も、私の人生の中で琴線に触れた
貴重な友人の一人だ。

 


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友情のオレンジの花(琴線に触れた友人達ーその5) [琴線に触れた友人達]

琴線(きんせん)に触れた友人達の
5人目は「がんもくん」です。

彼との付き合いも長いが
今まで彼にはこれと言った
あだ名はなかった。

しかし、彼の結婚式で、
会社の同僚達から「がんも」と
呼ばれていると聞かされ、
彼の頬っぺたを見つめながら
「はた!と納得した」と
式の挨拶の中でも言ってしまった。 

 

200px-Ganmodoki.jpg


彼との付き合いは
中学1年の時以来だ。

このコーナーの第1話の
みっちゃん」の話の中で
私が6歳の時に隣町から
引越して来たと紹介したが、
「がんもくん」はその隣町からの
越境入学者だ。

その隣町に小学校は一つしかないから
私が越さなくても、いずれ彼とは
知り合いになっていたと言う事になる。


中学生当時、
冬になると毎年の様に流行性感冒が
流行り、私などは3日間水しか飲めない
というひどい目にあった。

そうなると当然クラスは学級閉鎖だ。

ある日、私が流感で寝込んでいると、
彼が我が家にやってきた。

私が風邪で寝込んでいるという事は、
中学の生徒全員が寝込んでいると
思い込んでいるから、
突然元気な彼が現れた事が不思議に
見えた。

やはり彼は、
私より鍛え方が違う様だ。

 

その頃、体育の時間には
フォークダンスがあった。

複数のクラスが合同でフォークを踊り
男女が手を繋ぎながら「マイム、マイム♪」と
輪を描きながら踊るのだ。

隣のクラスには可愛い女の子がいて、
私はその娘と手を繋ぐのを楽しみに
していた。

しかし、事もあろうに
「がんもくん」がその娘と
手を繋いでいる時に、
「ああ~、早く終わらないかな」と
呟いてしまった。

「何と言う事を言うのか」と
思う私より先に、これを聞いた
天然パーマの三平というあだ名の
体育の先生がカチンと来てしまった。

「がんも、前へ出ろ!」、
「歯を食いしばれ!」、
「ガッーン」と彼は
殴られてしまった。


・・・と我々は、
そんな中学生時代を過ごした。

 

その後、長じて彼は東京の大きな
郵便局に勤め始めた。


通常、
我々サラリーマンの勤務状態は、
朝出かけ、夜には自宅に帰る。

一方、
彼の仕事には泊まりがあり、
2日休んで3日目の夕方に
会社に出かけ泊まりの仕事をする。

しかし、
彼のご近所のおばさんたちは
昼間の彼の姿だけを見ているから
彼の働いている姿が想像出来ない。

 

ある日、彼の母親と懇意にしている
近所のおばさんが母親に言った。

「お宅の息子は、仕事もしないで
ぶらぶら自宅にいて、
たまに出かけたかと思うと
朝帰りなどをして~」と
彼の母親を非難した。

サラリーマン家庭のおばさんは
彼の夜の行動を理解出来ないのだ。


 

DSC00680-30-50.JPG


10年ほど前、
我が家を新築した際、
彼が「のうぜんかずら」の苗木を
庭に植えていった。

その苗が育ち、
今では夏になると沢山の
友情のオレンジの花が
我が家を飾ってくれている。


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優男と一緒だった!(琴線に触れた友人達-その4) [琴線に触れた友人達]

私の人生の中で
「琴線(きんせん)に触れた友人」の
4人目は「きー坊」。

「きー坊」と言っても
坊やではなく女性です。

彼女を初めて見かけたのは
中学2年のお正月。

友人宅に遊びに行く時、
彼女が羽子板遊びを
していた時だから
時代がばれる。

最近は、子供たちが
お正月に羽根突きをするのを
目にするのは皆無だ。


彼女は目に特徴がある。
猫の目と言うのだろうか。

大人になると彼女の目は、
時代劇テレビの女目明し役で
時々登場する山口いずみの如く、
特徴のある素敵な目になった。

 

青春を謳歌していた頃、
地元の友人達や学生時代の友人達の
スキー旅行にも同行した彼女は、
青春時代の楽しい仲間だった。

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彼女とはそんな仲だったが、
ある事があり、我々は1年ほど
離れた時期があった。


暫くぶりに再会した時、
彼女は年下の男に失恋した直後で
かなり落ち込んでいた。

私は、
傷心の彼女を慰めるため、
スキーに連れて行ったり、
飲みに連れて行ったり、
アルバイトを紹介して
やったりした。

 3982809.jpg


翌年のお正月には、
一緒に赤坂の神社に出かけて
おみくじを引いたが、
彼女が引いたのは「大凶」だった。


彼女はこのお正月、
これで3度目のお参りだそうだが、
おみくじはすべて「大凶」だった。

凄い確率だ。

 

それから数年後、
「きー坊が優男(やさおとこ)と
町中を歩いていた」とやーちゃん
から連絡があった。


そして更に数年後、
今度は私が
可愛い娘を連れた「きー坊」と
町中ですれ違った。


思わず娘の方に目が行ったが、
その子の目は猫目ではなかった。

 

偶然だろうが、
やーちゃん」も「きー坊」も
我々が育った町を離れ、
今は遠い横浜に住んでいる。

 


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「たけちくん」の話:(琴線に触れた友人達ーその3) [琴線に触れた友人達]

私の人生の中で
「琴線(きんせん)に触れた友人達」
の3人目の今回は「たけちくん」の話です。

「たけちくん」と言うと、
何だか怪人20面相の「明智くん」の様だが、
子供の頃、彼の家の近くに
背の高いドングリ眼(まなこ)の大学生が
彼の事を「たけち!」と呼んでいたので、
今回彼の事を「たけちくん」と呼ぶ事にした。

彼も「やーちゃん」と同様、
小学1年の時は私と同じクラスだった。


しかし、彼とより親しくなったのは
小学4年の頃からと記憶している。


周りが、
彼と私の仲を「凸凹コンビ」
と呼んでいた事を知ったのは
つい最近のクラス会での事だ。


実は、私は子供の頃から背が高く、
同級生より首ひとつ背が高かったので
その様な言われ方をしたのだろう。

 

小学4年生のある日、
彼は初めてメガネを掛けた。


今でもその時の感激を彼から聞かされるが、
「世の中が開けた様な気がした」そうだ。


生まれつき目の悪い人は、
視界が狭く
初めてメガネを掛けると
そう感じるのだろう。


その日の授業の始まる前、
担任のA先生から
「彼をからかわない様に!」と
悪がき連中に一言注意があったのは
無論の事だ。

 


その後、我々が成人した頃に、
小椋桂の歌が流行っていた。

ある日、
彼の家で小椋桂のレコードを
聴いていた時の事である。


 

 

歌を暫く聴いた頃、
「小椋桂は、歌も上手いし、
詩も良いし、ハンサムだし、
良いね~」と彼が呟いた。


私は透かさず
レコードのジャケットを指さして、
「この写真は小椋桂じゃないぞ。
彼は担任のA先生に似て、
オヤジみたいな奴だぞ!」
と反論した。


そう、
小椋桂はデビュー当時、
レコードジャケットには
顔を出していなかったのだ。

レコード会社の作戦にひっかかり
たけちくんと同じ様に勘違いした若者が
当時の世の中に沢山いたと想像する。



果たして、
この人物は誰だったのだろうか?

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私は、
彼の姉や母親とも親しく、
彼女達は、
実の姉や実の母親の様に
私に接してくれた。

そして、
それから沢山の時間が経過して、
90歳を超えた彼の両親の葬儀に、
友人代表として
参列させてもらったのは
つい最近の事だ。

 

PS:琴線(きんせん)とは、

その人物や物事が、

自分の心の奥底のひだに感じて

いつまでも心に残る事を言います。

 

 

 

 

 

 


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やーちゃん!(琴線に触れた友人達ーその2) [琴線に触れた友人達]

さて、
みっちゃん(5月20日記載)と別れて隣町に越した私は、
その後、近くの第一小学校に入学した。

実家の本棚に、
左右に桜の花が咲いている校舎をバックに、
1年生の時の入学式の写真がある。

その写真の中で、
私の横に並んでいるのが「やーちゃん」だ。

彼との付き合いは、小学1年生から
成人後、彼が横浜に越すまで続く。


当時、小学校のお昼休みの時間は、
クラシックの音楽が流されていた。

流された数々の音楽の中で、
私のお気に入りは
サンサーンスの「白鳥」。

 

成人してから、
私が生まれて初めて買ったCDは、
このチェロ演奏の「白鳥」だった。


我々が成人した頃、
何処か場所は忘れたが、
やーちゃん達と一緒にいる時、
店内に「白鳥」が流れていた時があった。

すると彼が、
「この音楽を聴くと、小学校の弁当の時間を
思い出すんだよ!」と呟いた。

私も「同感だ!」と
同意の意思表示をしようとした瞬間、
隣にいたNくんが否定をしてしまったので、
私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
 

彼の趣味は音楽で、
二十歳前後の頃、
大きめのウクレレを買い込んだ。

そして、
そのウクレレでロシヤ民謡の
「エレベ川」を歌ってくれた。

この歌も、
私のお気に入りの一つになった。

 私達は彼の事を名前で呼ぶが、

クラス会があると彼は

女性陣から「やーちゃん」と

親しげに呼ばれている。 

 

今では、

年1回の年賀状での付き合いだけとなったが、

先日の年賀状には

「また、ウクレレを始めました」と

添え書きがあった。

 


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みっちゃんの記憶(琴線に触れた友人達-その1) [琴線に触れた友人達]

先日、
このブログに先輩や後輩の話を書き込んだが
その次に、
友人・知人の話をしてみたくなってきた。

自分の人生を時系列に
思い出してみよう。


まず、自分の記憶の中で
一番遠い昔の記憶の隅にある
「みっちゃん」の話から。

嘗て住んでいた、
私の生まれた村の近所に住む彼は
私より一つ年上で、
彼との交友の記憶は
5~6歳の頃だろうか。

当時、自宅に絵本があり
その中に、田舎の子供たちが
夕日の中で麦畑を歩いている挿絵があった。

その中に描かれていた、
目がくりくりしている少年が
みっちゃんにそっくりだった。

 

アイス.GIF


夏になると、彼のお父さんは、
自転車の後ろの荷台に
水色の四角い箱を積み、
中にアイスキャンディーを入れて
売っていた。


自転車に幟(のぼり)を立てて、
チリン、チリンとベルを鳴らして
キャンディーを売るのだ。

彼には
兄と弟がいた記憶がある。

 

やがて、私が6歳の春、
我が家は隣の町に引っ越してしまい
以後、彼と会う事はなくなった。

 

今頃彼は

どうしているのだろうか。


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