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八王子隕石! [歴史]

今朝のNHKのニュースが、「200年前に八王子や多摩、

日野あたりに落下した隕石を捜している!」と報じていた。

 

 

無題50.png

 

 

当時、直径90センチ、重さ60キロの隕石が代官所に届けられたが、

「火山石だ!」と結論付けられ、以後行方不明となった。

 

見つかれば、日本で最大級の物なので、200年を記念して

改めて、市やNHKがあちこち声を掛けているのだそうだ。

火山石と違うのは、隕石は磁力があるのだとか。

 

 

 無題1170.png

 

早速、八王子に住む友人や後輩達に声を掛けておこう。


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「流れる星は生きている」と「旅路」(3-3) [歴史]

(3-2からの続き)

ソ連と米国の話し合いの末、
朝鮮半島の真ん中に軍事境界線が引かれてしまい、
38度線で朝鮮半島は南と北に分断されてしまった。

北から南下する汽車は、
境界線の前までしか行かなくなってしまう。

更に大変な事に、
ご主人はソ連軍に召集され、残されたのは、藤原ていさんと
幼い息子2人と生まれたばかりの娘の4人となってしまった。

仕方なく、母子のみで汽車に乗り、
境界線の近くの新幕まで移動出来たが
その先は、歩いていくしかない。

幾つもの山を越え、谷を歩き、幾つもの川を渡る。
その距離は70キロもある。

3人の幼子がいるので、歩くのはいつも一番最後。
そして、最後は皆裸足。

そして、
やっと38度線を越える事が出来る。

(と言っても、38度線と書いた白い標識があるだけの様だが。)

そこで米国軍に迎えられ、傷の手当てを受け、

食料の配給を受ける。

(真珠湾を奇襲した敵国日本人に 沢山の食料や医療援助を

 してくれた米国に感謝だが、逆の結果となったと仮定した場合、

 果たして、日本人は彼等の様に、

 米国側に親切な態度を取れるであろうか?)


藤原ていさん家族は、釜山から船で福岡に着く。

DDTなどで消毒されるが、病気を持ち込まないよう

沖で20日間待機させられる。

 

そこで「引揚証明書」を貰い、列車で故郷の諏訪で
家族と再会し、日本での生活を再開する。

ここで、一安心と行きたい所だが、
今度は結核になってしまい、彼女は1年半は立ち上がる事が
出来なくなってしまう。

しかし、幸いな事にその頃、ご主人が中国から帰国し、

気象庁の仕事に復帰し、住まいを東京に移す。


そして、藤原ていさんがその自伝的小説
「流れる星は生きている」として執筆するのが昭和24年。

本は、たちまちベストセラーとなる。

当時、気象庁へ勤めるサラリーマンのご主人は
「藤原てい夫」と呼ばれるようになる。

それに発奮したご主人が
「自分も小説家となる!」とこちらも小説を書き始め、
唯のサラリーマンだったご主人は、
その後、直木賞を受賞する小説家「新田次郎」となる。

そして、藤原ていさんが、
「流れる星は生きている」を発表してから
30年後に「旅路」として、補作を発表する。

tabiji.jpg

前者の本には、ソ連軍の話はないし、
ご主人とは中国で分かれたまま終わっている。

この2冊を読んで初めて全貌が分る。

            

                ・・・・・・・・・・・・・・・・・

この本でも分る様に、日本は今から70年前に
第2次大戦でアジアへの侵略戦争を行ったが、
その結果、民間人もこの様な悲惨な経験をする事に
なった経緯を、我々は何時までも忘れてはならない。


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見栄っ張りな日本人 [歴史]

昨日は天皇誕生日だったが、

同時に元の会社の上司の誕生日でもあった。

 

しかも、「生年月日はまるで同じだ」と聞いたのは、

今から10年前の事だ。

 

第二次大戦で勝利したアメリカ軍が、

「厚木の飛行場から横浜方面に行進しているの見た」と

以前彼から聞いた事があるが、

歳を数えるとそれは12才の時のはずだ。

 

その時、チュウインガムをかみながら

歩いている兵隊もいたと言う。

 

軍国少年たちの目には、

何と規律のゆるんだ人達だろうと感じたと同時に、

そんな人達に負けたのかと悔しい思いもしたのだろう。

 

江戸時代は「武士は食わねどたか楊枝」、

平成の現在は、

「敗戦」と言わず「終戦」と言うのが

見栄っ張りな日本人らしい。


タグ:天皇誕生日
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島倉千代子の先祖は朝倉義景 [歴史]

島倉千代子が亡くなった。

島倉千代子の先祖は、
戦国時代の武将朝倉義景の親族だと、
以前何かの本で読んだ事がある。

戦国時代、浅井・朝倉の連合軍は
織田信長や羽柴秀吉に攻められ
滅ぼされた。
その際、朝倉の親族の一部が新潟に
逃れ、やがて徳川の時代になり、
苗字の一部の「朝」を「島」に変えた。

そして、
そのまま時代は昭和となり
島倉一家は東京の品川に引越し、
歌の上手い姉妹が喉自慢で活躍した。

やがて妹が島倉千代子として
歌手としてデビューした・・・、
こんな内容の本だった。

では、
彼女の冥福をお祈りして
私の好きな「からたち日記」
を聴いてみよう。


 


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湯河原への旅(もうひとつの2・26事件) [歴史]

さて、

湯河原の万葉公園を散策した我々一行は、

バス停に向かったが、

その途中で、こんな説明書が目に入った。

DSC03902-1.JPG

DSC03903-1.JPG

この説明書の内容は、湯河原町のHPによると

「2・26事件と湯河原」として以下の説明があった。

1936年(昭和11年)2月26日珍しい大雪の早朝、
国家改造(昭和維新)を目指す陸軍の一部青年将校らは
1400人余の部下将兵を率いて、首都の中心部を占拠し、
軍・政府高官の官邸、私邸を襲うという、
日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件 2・26事件
を起こした。

この事件で、東京以外の唯一の現場となったのが、
ここ湯河原の 光風荘 である。
老舗旅館伊藤屋の元別館 光風荘 には、前内大臣の
牧野伸顕伯爵が静養のため家族、
使用人とともに滞在していた。

DSC03901-1.JPG

見た目は普通の家なのだが、この家

で歴史が展開していた。

 

牧野 伸顕 伯爵(まきの のぶあき)
明治の元勲大久保利通の次男として1861年(文久元年)。

吉田茂元首相は、長女牧野雪子の婿。吉田の長女和子は、
祖父伸顕とともに事件に遭遇した。

吉田(麻生) 和子
牧野伸顕、峰子夫妻の孫。2・26事件当時20歳。
父は吉田茂元首相。のちに麻生太賀吉に嫁ぐ。
麻生太郎元首相の母。

DSC03904-1.JPG

と言う訳で、史跡「二・二六事件 光風荘」の横に

この人の名前があった。

images.jpg

この人、「自民党の安倍を党首に担ぎ出したのは俺だ!」と

今後またまたしゃしゃり出てきそう!


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「元寇」2巻を読んで! [歴史]

伴野朗(とものろう)の
元寇(げんこう)を読んでみました。

久しぶりに読み易い本を
読んだ気がする。

元寇は、
今までに何回か読んでいるが、
この小説は、
日本を中心にした小説でない。

 

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モンゴル帝国を中心に描かれていて、
その勃興期に巻き込まれる
南宋、朝鮮、日本が描かれる。

時代は、
ジンギスカンの孫フビライが
中国の南宋を陥れる時期。

南宋を攻めるには
交易を結んでいる日本と言う
外堀をまず陥れようと、
5回に渡るフビライからの
交易の依頼。


再三の依頼を無視し
挙句の果ては
フビライ自身が派遣した使節団を
2度も処罰してしまうと言う
島国日本の北条政権の世間知らず。


1度目の元寇(文永の役:1274年)では
モンゴル(元)と朝鮮軍(高麗)の
連合軍3万人が、
対馬、壱岐、博多に攻めてくる。

朝鮮軍は日本などは攻めたくは
ないのだが、
隣国にある強国からの
無理強いで仕方がない。


2度目の元寇(弘安の役:1281年)の時は
既に南宋は滅ぼされていて
モンゴル(元)と朝鮮軍(高麗)の4万人
そして、
南宋軍10万の兵が
日本に押し寄せてくる。

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フビライの目的は、
日本を攻めると同時に
南宋軍10万の処分だ。


中国に新しい国を作るのに
南宋の軍隊は不要なのだ。


日本を占領して
10万の南宋軍を占領者として
日本に住まわせ、
中国から遠い地に追いやる
つもりなのだ。

そして、
北京を首都にし、
モンゴル人を中心とした
元と言う国を作り上げる構想だ。


しかし、
日本攻めは台風のために
ことごとく失敗してしまう。


だが、
南宋10万の軍は海の藻屑として
消えていった結果、
フビライの目的の半分は成功した。

そして、残り半分の目的のため、
フビライは3回目の元寇を行なおうと、
またもや数千隻の船の作成を
高麗国王に命じるなどの行動に出るが、
大陸の他の勢力の勃興が起き
幸いにも
日本への侵攻は消滅した。


この「元寇」2巻を完読するのに
1ヶ月を費やしたが、
読んでいる間に
時々その情景が浮かんで来て
楽しく読む事が出来た。

 

IFの世界だが、

もし、台風と言う自然現象の偶然がなかったら

モンゴル支配下の日本は

その後、どの様な歴史を辿ったのだろうか。

 


 


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月と地球の距離 [歴史]

先ほどディスカバリーチャンネルの

「地球46億年の大移動(1)」で

面白い話を沢山放送していました。

  

現在の地球と月の距離は38万5千キロです。

しかし、46億年前、月は地球の目の前にあり、

その距離は、現在の10分の1の、

僅か3万8千キロでした。

 

 image.jpg

 

東京からブラジルのリオデジャネイロの距離が

1万8590キロですが、その倍でしかありません。

しかし、その近さが幸いして

月の引力が地球に沢山の影響を与え、

延いてはそれが人類誕生の奇跡へと

繋がったようです。 

 

200px-Apollo_11_Lunar_Laser_Ranging_Experiment.jpg

 

上の写真は、今まで何度も見ている米国アポロが

月面に着陸した時の写真です。

 

初めて月面に人類が1歩を印したその時

私は、秋葉原の電気街にいて、

沢山のテレビ画面がその模様を

伝えていたのを記憶しています。

 

私は、米国の国旗が立てられた事や

人類の初めての足跡にばかり気に取られ、

この写真の物体が何物であるかに

意識が行っていませんでした。

 

しかし、

先ほどのディスカバリーチャンネルの

「地球46億年の大移動(1)」の放送で

あの四角い物体は

地球に向けた反射板である事が分かりました。

 

米国のアポロ計画は、とっくに終了してしまったと

我々日本人も思っていましたし、

米国人自身もそう思っているのですが、

まだまだ終わっていない様子です。

 

事実、米国のアポロ計画の

最後の任務を果たすため

毎夜、山に上り、

月にある反射板にレーザー光線を

発射している人達がいました。

 

何の為に、

毎日そんな事をしているのかと言うと、

それは、地球と月の距離を

毎日観測しているのです。

 

その観測によると、

月は毎年地球から3センチ

遠ざかっていると言う事です。

 

この米国の壮大な観測に

敬意を払いたいものです。

 

DSC03622-2.JPG

 

 


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家系図を作る [歴史]

3年前に母親を亡くした際、

本家の伯母が書いた

手書きの母方の家系図を

見せてもらった事がある。

 

その後、

自分で家系図ソフトを購入して

一応は作成したが、

それきりとなってしまった。

 

3週間前のお正月の年賀状の中で

親戚からの2枚は、写真入りの

赤ちゃん誕生の内容だった。

 

そこで、3年前を思いだしたのだが、

「今度は自分で家系図を作成してみるか」

と思い立ち、エクセルで作成してみた。

  

セル.GIF

まず、エクセルを開いて、マウスをAに持って行き、

列幅を半分くらいの4.0にする。

後はそれをコピーして、全体を細かくする。

 

そして、四角枠と繋ぎ線は

右上の罫線を使い、

罫線でうまく行かない時は、 

ツールバーから図形描画を呼び出し

そこの直線を使えば良い。

1121-1-1.GIF

上の四角に、名前を埋め込んでみたのだが、

最後に見回すと、まだ5名の名前は確認されていない。

 

子供の頃、法事などで親戚が集まる際、

顔は見た事はあるのだが、自分との関係が

分からない人が沢山いた。

 

今回作成した家系図を

若い親族に渡しておけば

そんな疑問はすぐに消えてしまう。

 

早速、この家系図をメールに添付して

赤ちゃんが誕生した甥に送って

枡が埋まらない5箇所を調べるよう

依頼しておいた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

(オマケの一言)

 

本日はわが町の

市長選の投票日。

 

我が家は

投票所の通り道。

 

しかし、

すでに時計は

お昼近いのだが

歩いてくる人は

ほとんどいない。

 

立候補者が二人だから

今回も投票率は低そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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ジョン万次郎ーその2 [歴史]

1月11日の続きです
 
前回は、漁船で漂流していた万次郎達が、
四国沖から鳥島に漂流し、5ヶ月後、
たまたま上陸してきた「ジョン・ハラウンド号」に救助され、
米国のマサチューセッツのニューベッドフォードに行った所まででした。
 
 
その後、万次郎は「ジョン・ハラウンド号」のキャプテンの
ホイットフィールドの養子となり、
今で言うハイスクールで航海学を学びました。
彼は、在学中常にクラスの主席を占め、
優等の成績で卒業しました。
 
また、キャサリンと言う女性と結婚した。
 
彼女と結婚して、米国に骨を埋める覚悟ですが
やはり、日本の母親の事も頭から離れません。
 
  
将来の糧を得る為、万次郎は捕鯨の船に乗ります。
この時、一度沖縄に上陸を試みますが、話が通じません。
 
 
米国のニューベッドフォードの自宅に帰ると、
奥さんのキャサリンが海の事故で
亡くなっていた事を知り、
傷心の彼は死を覚悟して日本に帰る事を決心します。
 
この頃、鎖国をしている日本に帰る事は、
牢獄で取り調べを受け
大概は亡くなる運命にあるのです。
 
 JohnManjiro.jpg
 
 
カリフォルニアで金を採掘し、
帰国の費用として、ハワイにいる仲間2人と
沖縄から日本に戻ります。
 
幸いな事に、
万次郎達が沖縄に上陸した当時、
日本は、長い鎖国から、
「文明の進んだ異国」を受け入れる体制の流れに、
傾きつつありました。
 
 
時代の風が万次郎に見方をして、
沖縄、鹿児島、長崎、土佐での対応は、
異国文化を理解している彼にとって、
大変丁重なものでありました。
それだけ日本は外国の情報を欲しがっていたのです。
 
実は、この時期に、江戸に黒船が来ていたのです。
 
 
彼の幕臣の身分は、土佐の上士より身分は上です。
 
先日の大河ドラマの「坂本龍馬」で、
下士の身分の龍馬は、上士が来ると土下座をして
彼等の通り過ぎるを待ったシーンがありました。
土佐の漁師の万次郎は、
その上士より身分が上となったのです。
  
その後、万次郎は幕府の幕臣に引き上げられ、通訳として
勝海舟と共に「咸臨丸」に乗りサンフランシスコに行きます。
 
さらにその後、当時開通したパナマ運河を経由して、
米国経由でヨーロッパにも出かけます。
 
 WS000050-1.PNG
 (万次郎が船で航海した航路を色分けしてみましたが、
  150年も前に、彼は世界中を航海していたのです。)
 
 
そして、時代は明治となり、
再度米国に行きますが、
この時は、アメリカ横断鉄道も開通していて、
万次郎は、列車で東海岸まで行き、
ニューベッドフォードの
ホイットフィールド船長と再会します。
 
(100年後の現在でも、この両家は交際が続いています)。
 
 
万次郎は、
幕府の軍艦操練所教授。
薩摩藩の藩校教授、
土佐藩の藩校教授、
そして、東京帝国大学の前身の
開成学校の教授として活躍します。
 
 
明治期初頭、土佐藩藩主の山内容堂の許可を
受けて、万次郎は土佐藩下屋敷に住む様になりました。
 
場所は、現在の西大島の北砂小学校の敷地内です。
 
そして、山内容堂自信は、
丸の内にあった土佐藩上屋敷の他に、
別途敷地を手に入れ、住む様になりました。
 

その土地は、
徳川時代は田安家の敷地でしたが、
明治維新の勝ち組の
土佐藩に譲る事になった様です。
 

この敷地が、現在の何処かと調べてみましたら、
私の仕事場からわずか300メートル先で、
先輩Mさんの仕事場の目の前でした。
 
何気なく、毎日歩いている場所にこんな歴史が
埋もれているとは
本当に歴史とは面白いものです。
 
彼の活躍は、
現在で言うと、シアトル・マリナーズで
活躍しているイチローを思い起こさせます。
 
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
(おまけのひと言)
 
今回私が読んだ津本陽の小説
「椿と花水木」の題名は、
 
万次郎がキャサリンと結婚した際、
男の子が生まれたら「ドック・ウッド」
女の子が生まれたら「カメリア」
 
と言う名前を付けようという
ところから来ている様です。
 
即ち、カメリアは「椿」、
ドック・ウッドは
「花水木」なのです。

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ジョン万次郎「椿と花水木」 [歴史]

自宅では絶対にしない事ですが、

仕事場で昼食を取る時、

私は、

つい新聞を読みながら食べてしまいます。

 

その行為は、

お行儀の悪い事で、

子供の頃、

父親に良く注意された事でありますが、 

 何故だか止められません。

 

見る新聞は、

つまらない経済新聞なのですが

裏面の「私の履歴書」は

私の愛読コーナーなのです。

 

つい先日、そのコーナーで、

歴史や剣豪小説を書く

津本陽さんの人生録が連載されていました。

 

彼の小説は「下天は夢か」と言う

織田信長を綴った物は読んだ事はありますが、

その他は読んだ事がありませんでしたので、

図書館に行き彼のエッセイー集を読んで見ました。

 

その中に

「椿と花水木」」と言う題名で

「ジョン万次郎」の生涯を描いた小説を見つけました。

 

その本を借りてきて

今、盛んに読んでいる最中です。

 

以前、他の人の「ジョン万次郎」の

小説を読んだ事はありますが

何回読んでも、引き付けられる人物です。

 

ジョン万次郎は1827年に、

四国の高知県、

現在の土佐清水市中浜地区で

漁師の次男坊として生まれました。

 

ある日、5人で漁に出た時、

潮に流されて数日間 漂流して、

四国からはるか北の関東まで流され

下の絵の中の、八丈島と小笠原の中間の

「鳥島」にたどり着きました。

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鳥が羽を休めた様な島の「鳥島」。

この島に5人が上陸したのが1841年。

ジョン万次郎が14歳の時です。

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 この、現在でも無人島の島で

水と食料で苦労して生活して5ヶ月目。

偶然、米国の捕鯨船が、

海亀の卵を取りに来た時に

彼等は救助されます。

 

その後、万次郎達は「ハワイ」に寄航し

4人はハワイに残りますが、

船長に気に入られた万次郎だけが再度船に乗ります。

 

そして、南太平洋のタヒチなどの島々に寄航後、

北上して「グアム」「フィリピン」「台湾沖」

そして「日本の金華山沖」を航海します。

 

その頃の日本は鎖国をしていて、

外国船が来ると大砲を撃ちつけて来るので

万次郎が日本に帰ろうにも帰れません。 

 pic_08_1-1-1.JPG

そしてその後、

世界地図上のピンクの線を航海して

米国に上陸します。

 

( 続 く )

 

・・・・・・・・・・・・・

 

(おまけのひと言)

 

当時の日本の漁師に

名字は許されていず

彼は只の万次郎でした。

 

しかし、

彼等を救助した捕鯨船の

「ジョン・ハラウンド号」にちなみ

メリケ(アメリカ人)が彼を

「ジョン万次郎」と

呼ぶ様になりました。


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