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「流れる星は生きている」と「旅路」(3-3) [歴史]

(3-2からの続き)

ソ連と米国の話し合いの末、
朝鮮半島の真ん中に軍事境界線が引かれてしまい、
38度線で朝鮮半島は南と北に分断されてしまった。

北から南下する汽車は、
境界線の前までしか行かなくなってしまう。

更に大変な事に、
ご主人はソ連軍に召集され、残されたのは、藤原ていさんと
幼い息子2人と生まれたばかりの娘の4人となってしまった。

仕方なく、母子のみで汽車に乗り、
境界線の近くの新幕まで移動出来たが
その先は、歩いていくしかない。

幾つもの山を越え、谷を歩き、幾つもの川を渡る。
その距離は70キロもある。

3人の幼子がいるので、歩くのはいつも一番最後。
そして、最後は皆裸足。

そして、
やっと38度線を越える事が出来る。

(と言っても、38度線と書いた白い標識があるだけの様だが。)

そこで米国軍に迎えられ、傷の手当てを受け、

食料の配給を受ける。

(真珠湾を奇襲した敵国日本人に 沢山の食料や医療援助を

 してくれた米国に感謝だが、逆の結果となったと仮定した場合、

 果たして、日本人は彼等の様に、

 米国側に親切な態度を取れるであろうか?)


藤原ていさん家族は、釜山から船で福岡に着く。

DDTなどで消毒されるが、病気を持ち込まないよう

沖で20日間待機させられる。

 

そこで「引揚証明書」を貰い、列車で故郷の諏訪で
家族と再会し、日本での生活を再開する。

ここで、一安心と行きたい所だが、
今度は結核になってしまい、彼女は1年半は立ち上がる事が
出来なくなってしまう。

しかし、幸いな事にその頃、ご主人が中国から帰国し、

気象庁の仕事に復帰し、住まいを東京に移す。


そして、藤原ていさんがその自伝的小説
「流れる星は生きている」として執筆するのが昭和24年。

本は、たちまちベストセラーとなる。

当時、気象庁へ勤めるサラリーマンのご主人は
「藤原てい夫」と呼ばれるようになる。

それに発奮したご主人が
「自分も小説家となる!」とこちらも小説を書き始め、
唯のサラリーマンだったご主人は、
その後、直木賞を受賞する小説家「新田次郎」となる。

そして、藤原ていさんが、
「流れる星は生きている」を発表してから
30年後に「旅路」として、補作を発表する。

tabiji.jpg

前者の本には、ソ連軍の話はないし、
ご主人とは中国で分かれたまま終わっている。

この2冊を読んで初めて全貌が分る。

            

                ・・・・・・・・・・・・・・・・・

この本でも分る様に、日本は今から70年前に
第2次大戦でアジアへの侵略戦争を行ったが、
その結果、民間人もこの様な悲惨な経験をする事に
なった経緯を、我々は何時までも忘れてはならない。


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コメント 1

yamagtxp

makimakiさん
今日は。

ナイスをありがとうございます。
by yamagtxp (2014-01-31 11:09) 

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